凛灯舎

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闇濘幻想(三)

 その晩から家に帰る日までの一日、私と妹は叔父の部屋に通い詰めました。それ程に余裕の無さそうな生活なのにも関わらず、良く子供の相手をしてくれたものだと思い返しもするのですが、後に聞いた話では大層子供の好きな人であったようです。

 夏の昼日中から暗幕を下ろして幻燈を見、そうかと思えば外に出て植物などを教えて貰い、夜には外に出て様々の虫の声や蛍の光などに身を任せるのでした。秋の七草でありますとか、猿梨の実の食べられること、鯉の捕れる場所や山鳩の鳴き真似など、みな叔父に教わったものです。酔狂な人であることは見て取れましたが、あのような大人は見たことが無かったものですから、何事も酷く新鮮だったのを憶えています。或いは私と妹が半ば田舎から離れた生活を送っていた所為やも知れません。

 何より驚いたのは、部屋に入る度に人形の姿勢が違っていたことです。初めは膝の上に綺麗に手を揃えて正座していたものが、外から帰って来た時には三つ指をついていたり、足を崩して団扇を持っていたりするのでした。

「あね様は本当は生きていらっしゃるのでしょう」

 妹が無邪気にそう尋ねると、

んだよ。お帰りなさい、どって云ってるなしゃ

 叔父はまた例の悪戯めいた笑みを浮かべて見せるのでした。私は人形の関節を動かす様を一度叔父に見せて貰っていましたから、きっと私たちを驚かせようと叔父が動かしているものと思い、密かに優越感を持ちながら黙っていました。

 最後の晩は月の綺麗な夜でした。絵に描いたような上弦の月が、煌ゝと辺りを照らして居りました。すっかり安心し切って叔父と布団を並べていた私ですが、又寝惚け眼で隠しに立ちました。

 叔父の部屋にはまだ暗く明かりが見え、

(おや、叔父様はまだお仕事をなさっているのかしら)

 不思議に思いながらも私は通り過ぎました。

 何故今不思議に思ったのだろうと用を足しながら、私は自分の背が冷えて行くのを感じました。部屋で仕事をしている筈の大蔵叔父は、私が部屋を出る時も私の床の直ぐ隣りで僅かに鼾を立てて眠っていたのです。

(矢張りここは物の怪屋敷なのだろうか)

 ぞくりと寒気がしました。隠しを出てもまだ叔父の部屋の明かりは点いたままです。或いは叔父が明かりを消し忘れただけかも知れぬと思い、そうであってくれと願いながらも、臆病ながらに怖いもの見たさの野次馬根性が障子を開けてしまったのです。

 ぼんやりと、朱い木枠の丸灯篭が月の光と混ざって部屋の中を照らし出しています。散らばった和紙の波、岩絵具の固まった絵皿、上等とは云えない小筆、そして―――人形。

 矢張り叔父が明かりを消し忘れただけなのだ、馬鹿なことを考えたものだと思いながらも、私の目は人形に吸い付いて離れませんでした。何故ならば人形が―――それは寝る前に見た時とも又違う姿勢をしておりました―――こちらに向かって艶然と微笑って寄越したからです。

 紅い光沢を持った唇がゆっくりと動き、

「坊」

 優しげに声を投げました。昨夜部屋の外で聞いた、あの声でした。

 私が気を失うことなくその光景を見ることが出来たのは、何分にも人形から悪意が感じられなかったからであると思います。物の怪とも、幽霊とも思いませんでした。生身の人間ならば、子供が怖がる理由など無いのです。

 私は手招きされるままに向かい合って坐り、不躾にもまじまじと人形の様子を眺めました。人形の頬には昼間と違って薄らと赤味が差しており、手肌も盧と石膏とは思えない程柔らかに見えました。

本家の坊だどな

 にこやかに笑みを絶やさぬまま、私を団扇で扇いで彼女はそう云いました。私はここに初めて来た日のように、ただ頷きました。

明日帰るつけが。こんた田舎で楽しがったどご

 尋ねられ、漸く私は少し笑い返すことが出来ました。

それだばいがったなゃ。大蔵さんもなんぼがよろごんでらべ

 人形は益ゝ笑みを顔いっぱいに広げ、ころころと笑いました。酷く明るい女性なのだと思いながらも、彼女の目には大蔵叔父に見たのと同じ寂しさがありました。

 その時不意に私の後ろの障子が開き、大蔵叔父が顔を覗かせました。

なぃだこんた夜中に。これだぃだべったおめよ、正志ちゃんどご寝がせねば明日兄さんさごしゃがぃでしまう

 大蔵叔父は何事も無いかのように人形を軽く諌めると、云いながらも自身その隣りに腰を下ろしました。人形も心得たもので、さ、と座布団を差し出し、睦まじく笑みを交わす様は、恋人同士か夫婦のようにしか見えませんでした。

 大蔵叔父を見て気が緩んでしまったものでありましょうか、私はその様を見ながらうつらうつらと舟を漕ぎ始め、すっかり寝入ってしまったのです。眠りに落ちる前に、「あら……」と云った優しげな人形の声と、「めんこいおンだな」と云った笑みを含んだ叔父の声が、遠くに聞こえました。

 気付いた時にはいつもと同じく布団の上で朝の陽を浴びておりました。

 隣りの叔父の布団はもう片付けられており、私もそれに倣って布団を押入れの前に畳みながらも、まだ昨夜のことが夢か現か区別がつかずにおりました。

 しかし叔父はそのことについて何も触れませんでしたし、朝食前に覗きに行った叔父の部屋にいたのは矢張り石膏と蝋と硝子で出来た人形でしたので、私は叔父に質す機会を逃してしまったのです。先ずその記憶が私独りのものでしたので、妹にも云えずに悶ゝとして朝飯を食いました。

 昼になり、迎えが来てもあんまり私たちが愚図るものですから、小母さんも叔父も困ってしまったようです。結局、又遊びに来ればいいという叔父の言葉と、父に頼んでくれるという小母さんの言葉を信じて、私と妹は渋ゝ叔父の家を離れました。今考えるとあの年まで会わせて貰えなかった叔父の所にそう易々と遊びに行ける確証は何も無かったのですが、そうとでも云わないと私たちが帰りそうになかったのでしょう。

 手を振り合って別れ、、暫く歩いてから振り向いた叔父の家は矢張り田圃と野っ原の中に建った化け物屋敷に見えましたが、それは初めて見た時よりも全く自分に馴染んでしまったものでした。

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