凛灯舎

Contents

Novel

闇濘幻想(二)

 そこは子供の夢想で、一旦思い始めるとそうとしか見えなくなります。食事の終わる頃には私はすっかりその考えでした。

 やはりここは化け物屋敷で、目の前の男は人をとって食うのだ。畳を剥がせば縁の下からは人の骨がいくつも出て来るだろう。祖父が叔父を疎んじたのはその傾向を知っていたからではないのか。

 考えがそこに至ってはたと気付いたのです。私は叔父の顔というものを知りません。あの男が誰であろうと、同じ所番地に住んでいたならば私と同じように叔父の顔を知らない小母さんは叔父だと思うでしょう。

(物の怪そのものやも知れない)

 全く馬鹿ゝゝしいことと笑われるでしょうが、幼い頃というのは己の見るもの、感じたことが全てでありますから、それまでは思いもしなかった推理の結論に躯が震えました。無論心も震えたのでありますが、叔父はそのような童の夢想する様をむしろ楽しんでいる風にも見受けられました。

 湯浴みをし、煎餅布団に横たわり、眠れるだろうかと思う間もなく私と妹は深い眠りに就きました。子供というのは現金なものです。いえ、本能に忠実だと云うべきでしょうか。目を覚ました時には叔父が雨戸をがたがたとやっておりました。

 東北とは云え夏は陽射しが強う御座います。日が昇ったばかりのようでしたが、縁側の組み木はもう日光に焼かれ始めているようでした。

 私が目を擦りながらも起き上がったのを見て、

今日もぬぐぐなるど

歯を見せて叔父が笑いました。

 僅かに残っていた無精髭も剃り、陽光の下で笑っている叔父は、昨夜とは別の人間のように男ぶりが上がって見えました。祖父から勘当を云い渡されていることなど嘘のようでした。一体何の支し障りがあったものか、益ゝ疑問に思ったものです。

 そのうちに、東京の大学を出たというのに何故この人はまったく訛りがそのままなのか、こんな処で何をして暮らしを立てているものかと、分からぬことばかりが首を擡げて来ました。

 朝食の時にはやはり袖口に染みがありましたし、それは昨夜よりも大きくなっているような気さえしたのですが、陽光を浴びて尚生きている化け物などいないと、叔父は私の中ですっかり人間になりました。今ならば陽の下にいる化け物こそが恐ろしいと穿つことも出来ましょうが、未だ疑うことも知らない子供でありました。

 夏の陽は背に心地良く、私と妹は日がな一日遊んで過ごしました。叔父は縁側からそれを見ていたかと思うと、居間で本を読んでいたり、生い茂って他所様の畑に繋がっている庭の植物を模写したりしているのでした。

 その日の夕餉に(もうその頃には私も妹もすっかり叔父に慣れ切っていました)、私は思い切って

「叔父様は何のお仕事をしているの」

と尋ねたものです。父のように外に出て働いているのでもなさそうですし、藁屋の庄三の家のように人を雇っているのでもなさそうでした。そもそも家内工業だと云って、このあばら家で何を作るというのでしょう。

 私の質問に、叔父は暫く考え込んでいたようでしたが、

「幻燈屋」

とぼそりとそう答えました。幻燈屋とは何をする人間なのか、それを云うでもなく叔父はまた飯をかき込みましたので、私もそれ以上は訊きませんでした。

 昨夜と同じように湯浴みをし、布団に寝転び、薄い掛布団を腹の辺りに置いても、私は中々寝付けずに居りました。「幻燈屋」と云った叔父の眼差しの、どこか胡乱なことが頭の隅に燻って居たのです。幼心にも祖父との不仲の理由がそこにあるのではないかと思ったのでしょう。

 寝付けぬまま夜半を越したかと思います。なにぶん時計も無い家でしたので、愈ゝ丑三つかという頃、私は我慢が出来ずに隠しに立ちました。震えながらも用を足し、短い廊下を部屋に戻ろうという時、叔父の部屋から人の声が聞こえたような気がしました。

 私たちの眠っていた部屋は居間のすぐ横で、叔父の部屋は廊下を挟んで奥にありました。便所は廊下の突き当たりにありましたので必ず叔父の部屋の横を通るのですが、叔父の部屋は昼日中も障子を締め切っておりましたし、特に興味も引かれなかったのです。

 良く見ると、部屋の奥の方にぼんやりと明かりが灯っています。泥のような暗闇の中に、障子を通して酷く浮かんで見えました。声はその辺りから聞こえてくるようでした。怖いことも忘れ、私は立ち止まってしまったのです。

なしてそんたごど云うな

 哀願するような叔父の声が聞こえました。

ないもおめのしんぺすごどなねなだよ

 誰がいるのだろうと、その時になって初めて思いました。やはり寝惚けていたのでしょう。

「……大蔵さん……」

 唐突に発されたのは妙齢の女性の声でした。小さい嗚咽が一緒になって聞こえました。聞いてはいけなかったのだと踵を返した瞬間、障子が開いて叔父が顔を出しました。

寝らいねが

 怒る様子でもなく、叔父は私を部屋に招き入れました。入っていいものかと躊躇う間もなく、私はその部屋の中の様子に目を見張りました。

 薄い和紙が乱雑に散らばった床の一端に、朱い木枠の丸灯篭が立っています。その左隣には小さな座卓があり、岩絵具の粉や小皿や筆が所狭しと並べられているのでした。そして灯篭の右隣には―――人形がいたのです。

 紅を引いた艶かしい唇を見て息を呑んだ私に、

人でねよ

どこか淋しげに笑いながら叔父は手灯の明かりを向けて見せました。実際そう云われるまで生きた人かと思っていたものですから、云い中てられて気恥ずかしく思いましたが、それにしても良く出来た生き人形でした。

 人形は少し古びた濃紺の振袖を着ていました。薄紅で描かれた牡丹が季節外れな感を抱かせましたが、まるでその躯に誂えたように具合良く着せられていました。長い髪の毛は綺麗に項を出して纏められ、端整な顔立ちの中で半眼の目元がぞくりとするような色気を醸し出しておりました。僅かに見える手足は飽く迄も白く、滑らかでした。

綺麗だべ

 私の心を見透かしたように、叔父はにっと笑いました。

「お仕事?」

ないも、遊びよ。手慰みしゃ

 幻燈屋とはどんな仕事なのだと訊いた私に、それとは関係ないのだと叔父は云いました。人形に近付き、慣れた手付きで油を注す叔父の袖がその口に触れたのを見て、私は染みの正体を知りました。私が血と思っていたのは、何と云うことはない、機械油の染みだったのです。

 近くに寄ってみますと、人形は石膏と蝋で出来ており、瞳は硝子玉でした。髪や爪などは矢張り作り物然としておりまして、どうして先刻生きた人と見紛うたのかと不思議に思える程でした。

 しかし一歩離れて見ますと、艷のある容貌や躯つきの自然なことから、又生きているように見えるのです。全体、床に散らばる和紙に描かれた花や動物なども見事なもので、叔父のその腕の確かなことを伝えておりました。

 私が人形に見蕩れ、酷く褒めそやしたのに気を良くしたものか、叔父は自分の仕事道具を広げて見せてくれました。

 叔父の仕事にしていた幻燈と云うのは所謂写し絵のようなものでした。フイルムが回転する映画よりも原始的なもので、和紙に描いた絵を電気や蝋燭の光の加減だけで抑揚をつけて見せるのです。内容はと云えば昔話でありますとか、創作童話でありますとか、或いは叔父のスケッチとその講釈でひとつの作品となっているものもあるのでした。

 大体にしてこのような類の物は子供が喜びますもので、叔父の談に拠ると近隣の小学校へ良く呼ばれて行くのだということでした。私の通っておりました学校にも行ったことがあるという話でしたが、生憎私は見たことがないと云うと、それならばと叔父は内何本かを見せてくれました。

 灯篭を消し、手灯の他は何も明かりのない部屋の中で見る幻燈は、それは美しいものでした。隣に座る人形も幻燈の光を受けて生き返り、私と一緒になって様々な色のついた絵を楽しんでいるかのようでした。

Signpost

Copyright ©RINTOSHA. All rights reserved.