凛灯舎

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闇濘幻想(四)

 家に着くと、父が難しい顔をして坐っていました。そんなに叔父の所に遣るのが心配だったのかと思うとそのことではなく、父の渋面は速報を聞いてのことでした。「日本は後戻り出来なくなった」と云っていたことを憶えていますが、遠く大陸で起きた事件の重大さなど私は知る由も無く、ただ税が上がったらレコードが益ゝ手に入り辛くなるなあなどと考えては大人になったような気でいたのでした。第二次上海事変の日でありました。


 それから暫くは、あの家のことばかりをぼんやりと思って過ごしました。人形自体を見たのは妹も同じことですから、ふたりで又行きたいねえと話をしたりもしました。如何せん子供のことでありますから、日常様々なところに好奇の目を向け、徐ゝに忘れて行くものです。然しそれでも、あの小ぢんまりとした屋敷での一連の出来事は、私の心を捕らえて放しませんでした。

 その内に、日を追うに連れ戦争の色が濃くなり、父は滅多に家にいなくなりました。私と妹が東京に行くことも無くなり、自然同級生たちと過ごす時間が増え、二年三年と経つ頃にはすっかり溶け込んでおりました。戦争が友人をくれたかと考えると皮肉にも思えます。

 私の地域では軍需工場もありませんで学徒動員の対象になることは無かったのですが、食べ物の不足しているのはどこも同じで、毎日畑を見回っては収穫を楽しみにしておりました。

 父は生来肺臓が悪く、既に徴兵を免れておりましたが、田舎であったからでしょうか、非国民などと罵られることは殆どありませんでした。叔父たちや従兄弟たちなどは次々と出征しましたし、近所の青年たちも、現地から、或いは学徒兵として征ったという話を毎日のように聞いたものです。学校では教練が厳しくなり、あと一年もしたら私も日章旗に見送られるのだろうかと漠然と考えておるような日々でした。

 昭和十九年の秋でした。

 父が珍しく家にいました。祖父は朝から不機嫌で、薄手のフロックコートを身に着ける父の傍らに坐し、何もうちで送ることは無いのだとぶつぶつと云っておりました。用意を終えた父が私を見て、「お前も行くか」と静かに微笑いました。

 停車場は人でごった返しておりました。何でも地元の土建屋の長男が出征するとかで、父が何をしに私を連れて来たのかと訝しみましたが、それも一瞬のことでした。人込みのかたまりから離れて、国民服を着た大蔵叔父が低いブロック塀の上にぽつんと腰掛けておりました。

「暫ぐだな」

ごぶさだしてらンし

 久々に顔を合わせるのだろう兄弟が気まずげに言葉を交わす傍で、父が私を誘ったのはこういう訳だったのかと無感動に考えていました。親類の男手が無くなって行く中、確かに大蔵叔父の出征したという話は聞いていなかったのですが、何の不思議とも思わなかったのです。何処かで叔父を浮世のものとは思っていなかったのかも知れません。実際、国民服を着た叔父は、七年前のあの日に見た、どこか地に足の付かぬ幻燈屋ではありませんでした。

 土建屋の方に顔を見せぬわけにも行かず、一寸行って来ると父が踵を返し、私は叔父と差し向かいになりました。横へ坐れと手招きをされ、私は深く一礼してから大人しくそこへ腰を下ろしました。

おっきぐなったなァ、なんぼぃなるけな

「十四です」

 私の所作を見て、叔父は昔より少し皺の刻まれた顔で笑いました。はっきりと答えた私もまた、自分のことを話すのも侭ならなかった内気な子供ではありませんでした。

初め誰だが解らねがったよ

 ぽつりぽつりと、叔父は話しました。兄弟たちの状況を逐一父から手紙で受け取っていたこと。私の父と同じく肺が弱く、今迄徴兵を免れていたものの、戦況の悪化に伴い自分のような者も征かざるを得なくなったこと。このままだと、私も後一年か二年後には兵役にとられるであろうこと。

 七年前、たった四日間を過ごしたあの家や庭や絵、人形のことには、叔父は遂にひと言も触れませんでした。私も、あの夢うつつの情景を思い返しながらも、人形はどうしているのかと尋ねることはしませんでした。

 父が戻って来て、列車が発車するまでは何分もありませんでした。隣りから盛大な万歳三唱が聞こえる中で、車両に乗り込んだ叔父は慣れぬ手付きで敬礼をしました。電車を見上げ、父が何か云いかけると、そのままの姿勢で破願して見せました。父の肩は泣いているようでした。静かに枕木の上を走って行く列車を、私は今でも無声映画のように覚えております。

 それが、私が叔父を見た最後でした。


 次の年、父が東京の空襲で死にました。その頃になると年の殆どを東京で仕事をして過ごしておりましたから、空襲の第一報を聞いた時には最早絶望的な気持ちでした。取締役であるにも関わらず、父は品川に在った下請けの工場で最期を迎えたそうです。戦時中、鉄工業者という死の商人として食を繋いだ父の、善意への足掻きだったのかも知れません。

 大蔵叔父の戦死の知らせが届いたのは、終戦から二度目の春でした。春とは云っても漸く暖かな陽の差し始めた頃で、夕餉の時間になっても居間に来ない祖父を私が呼びに行くと、まだ寒さの残る縁側で骨壷を横に置いてじっと坐っておりました。骨壷の中には血痕の付いた布切れが入って、良く見ると名札が縫い付けてありました。家人が留守にしていた間に届けられたものでありましょう。

 祖父の涙を見たのは後にも先にもあれきりです。気丈であった彼人が、皺だらけになった顔を節くれ立った手で覆い泣くのを、私は声を掛けられずに只見ておりました。

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