「そりゃあ君」
彼は言った。
「そりゃあ君、万物の根源たる母なる海でしょう」
綺麗に煙草を吹かしながら。
外はゆっくりとした雪である。
「そういうもんでしょうか」
「ええ、…何です、御不満のようですねえ」
列車は静かに線路を滑って行く。
車窓いっぱいに拡がる山の景色は、一面重い雪に覆われていた。
“明日も降るつけなや”
物売りの老婆たちが、四人掛けの座席で静かに談笑している。
柔らかい訛りが、低く耳に入ってくる。
“なあんとおゆぎだおんだ”
「何とも大雪だなあ、という意味ですよ」
「え? ああ、どうも」
少し首を傾げた私を見たのだろう、突然彼が云った。
「明日も降るつけなや、というのは明日も雪が降るってねえ、ということです」
「はあ」
淡々と言葉を続ける向かいの男の顔は、その深く被った帽子のせいで見えず、表情を読み取ることができない。黒い厚手のその帽子は、実のところ随分と時代遅れな型に思えた。
声や動作から察するに、年は私と同じ頃であろう。
「地元の方なんですか」
方言を苦もなく訳すのに尋ねる。
「…認めてはもらえませんよ」
是でも非でもない、曖昧な答えを男は返した。
何をしている人間なのだろうと、ぼんやりと思う。
認めてもらえないというのは、誰にだろうか。地元の人間にか。
そうだとしたら、若いうちに出奔同然に故郷を出たとでも云うのだろうか。帰るに帰れず、数年振りに見た故郷の景色は車窓からのものだった―――…まるで三文芝居だ。
「御出身は東京ですか」
唐突に男が言った。
「あ、はい」
「盆踊りというのを御覧になったことが?」
「ええ。…ああ、確かこの辺りでも、」
「良く御存知だ」
「いえ、実際に見たことはないのですが―――」
しかし駅の構内でポスターを見たことがある。
「文化財に指定されているとか」
「ええ。一度御覧になるといいですよ」
紫煙をふうと吐いて、男は笑んだ。それが分かったのは、彼が少し顔を上げたからなのだが。
「非常に――…優美な踊りです。指の動きや足の捌き、篝火の中に幽玄に浮かび上がる踊り手たち」
夢を見るような口調で男は言った。その光景を、必死で繋ぎ止めるかのように。
「私は盆踊りが大好きでした。夏、盆の毎、姉に連れられて行ったものです。ぼうっと浮かび上がる踊り手の輪の中にいつか自分も入って踊るのだと、そう思っていた」
若衆の地口、編笠を目深に被った女たちの白い項、摺足で進む踊りの輪、薪のはぜる音。夜を徹して続けられる踊りは、明け方最高潮に達する―――。
男の語り口は、まるでその場にいるかのような錯覚さえ抱かせた。暖房の効きすぎた車内の温度が、身体をさらに火照らせている。
「しかしね君、盆踊りというのはどういう性格を持つものか御存知ですか」
男の口元が、悪戯めいた笑みを浮かべた。
「確か…、盆に帰って来た死者の霊を弔うという…?」
「ええ。それもそうなのですがね、もうひとつ、」
煙草を潰した手で懐から次の一本を取り出すと、マッチで火を点け深々と吸う。
「あの踊り手たちは皆顔を隠しているでしょう」
「あ、はい。たしかそうですね、笠を」
ポスターでしか見たことのないものは記憶に頼るしかないのだが、確かに写真の踊り手は顔が見えないほど笠を斜にして被っていた。
「笠の他に黒い頭巾を被るスタイルもあるのです。黒布に、目穴だけをこう開けてね、額のところを手拭で巻いて止める」
それは―――かなり怖いのではないか。
「どちらも踊り手の顔は見えないのです。それが、」
再び言葉を切り、煙を吐く。
「亡者が混ざっていても分からないようにする為だと云うんですな」
「…え?」
「つまりあの世から一時的に帰って来ている人たちです。彼らが混ざっていても、顔さえ見えなければ分からない」
それはそうなのだろうが、
「民俗学をやっている知人がいましてね。そいつに聞いたのです。…聞いて、」
ならば、
「私は幼い頃―――死者に魅入っていたのやも知れぬと」
急に寒気がした。
暖房は効いているはずである。視界の端にでは変わらず老婆が話し続けているし、誰かが窓を開けた形跡も見えず、―――何より向かいに座る男は平然としているではないか。男は乗り込んで来た時と同じ黒い帽子とマフラー、黒いチェスターフィールドを身に着けている。
―――違和感を覚えた。妙に古びている。
「……しかし私があの輪の中に入ることはなかったのです。引く手数多の好景気の時代でした。私は踊り手となる前に、働き手として東京に出た―――」
私の想像した陳腐な脚本は、強ち的外れではなかったわけである。が―――
「私は二度と故郷に戻ることはありませんでした。高度経済の波に呑まれてしまったわけですねえ」
高度経済だと? いつの話をしているのだ。国鉄が廃止されたのももう何年も前のことだ。
それに―――…あの盆踊りが朝まで続けられたのは昭和初めまでだったと、昨日従兄弟に電話で聞いたばかりだ。
考えてみればこの男が着ているチェスターフィールドは、
死者に魅入られて
形見分けにと持って来た、私の父のものではないか―――。
踊っていたのは私やも知れぬ。
咽喉の渇きに目が覚めた。
車内の暖房が効き過ぎている。
「大丈夫だんしが」
「は?」
急に掛けられた声に辺りを見回すと、はす向かいの席に陣取った物売りの老婆が心配そうにこちらを見ていた。
「あ、大丈夫です、すみません」
どうやら私は座席から落ちそうな格好で居眠っていたらしい。
「どんぞ」
「ど、どうも」
体勢を立て直した私に投げられた冬蜜柑を、慌てて受け取る。
老婆たちの話す言葉に、さっきよりも心なしか訛りを感じない。
「…さっき?」
蜜柑の皮を剥く手を止めて、静かに呟く。
あの男はどこにもいなかった。
規則的な振動が伝わってくるのに身を任せて、私は暫し茫然とした。
―――私は二度と故郷に戻ることはありませんでした。
あの男は父だったのだろうか。
確かめてみたが、チェスターフィールドは荷物の中に確りとしまわれていた。
東京に働きに出たまま事業を興し、帰って来るものと思っていた祖父から縁を切ると言われ、以来父は生涯故郷に足を踏み入れることはなかった。故郷について多くを語ることのないまま、父が逝ってから半年になる。
それでも風の噂というのは分からぬもので、どこから聞いたか、父の親類から初めて電話があったのは一週間前のことだ。
父の姉、私の伯母にあたる人は、電話の向こうでで小さく泣いた。
形見分けを訊いた時に、このチェスターフィールドをと言ったのも伯母であった。どうやら父が最後に許しを乞いに行った時に着ていたものらしい。父もまた、これを捨てられなかったのだろう。私が一度も見たことのなかったそれは、クロゼットの奥に袋に入って保管されていた。
拝みに行きたいのだと言う親類に、私は自分がそちらへ行くと言った。父の故郷を、引いては自分の血の出ずる場所を、この目で見たかったのかもしれない。
『私は踊り手となる前に、働き手として東京に出た』
車窓に映る自分の顔を見ながら、私は男との会話を反芻させる。
『そりゃあ君、万物の根源たる母なる海でしょう』
あれは何を話していたのだったか。
『そりゃあ君』
その一つ前。
「人の魂というのはどこから来て、どこへ帰るのでしょうね」
窓の外を流れる雪を見ながら、私はそう言ったのだ。
漠然と、無色から出でて無色へ帰るのだろうかと、そんなイメージが沸いただけだったのだが。
その前の会話は思い出せない。
ならばあれは、やはり夢だったのか。
苦笑して窓から目を離した私の視界に、吸殻の詰まった灰皿が飛び込んできた。いくら何でも向かいの座席に喫煙者が座って目を覚まさぬほど熟睡していたわけではない。
やはり夢などではなかったのだろうか。
『ぼうっと浮かび上がる踊り手の輪の中にいつか自分も入って踊るのだと、そう思っていた』
耳に男の声が蘇る。
(夏まで――)
老婆たちの談笑が、低く聞こえる。
(夏までいてみようか)
そうして踊りを習い、父の代わりに輪に入るのも悪くはない。
手に蜜柑を持ったまま、私は再び窓の外に眼を遣った。
まるで永久に春のこないかに思えるこの景色も、半年後には萌えるような緑に変わるのだろう。
そしてその頃、私は再び男の語ったあの情景を見るのだ。
自らを、その踊りの中に置きながら。
了(2000.11.18)