凛灯舎

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Novel

煙草に纏わるひとつの思い出

 彼の手から、外国煙草の匂いがした。

 それだけのことだ。


 私が煙草を嫌うのは、何も今に始まったことではない。

 齢三十にもなって喫煙席に座るのを嫌がり、文庫本ひとつを持ってデッキにいた私を友人は責めたが、何の抵抗もなく煙草を吸う者にこの気持ちは解るまい。繁忙期の新幹線の喫煙車両などまるで地獄だ。

 祖父は脳梗塞で、父は胃癌で逝った。二人とも愛煙家で、生家に煙草の煙の絶えたことはなかった。入院中もそれは変わらず、病院の庭で飽くこともなく―――時には教師から隠れる子供のように―――彼らは煙草を離そうとはしなかった。

 だが私は煙草を嫌った。医者にかかるほどではなかったにしろ生来呼吸器官の弱かった私には、あの煙は猛毒以外の何ものでもなかった。祖父の煙管から立ち上るゆったりとした紫煙も、父の紙巻きから上る細い線も、嫌悪の対象としかなり得なかった。

 しかし中学に上がる頃になると、そんなものを陰に隠れて吸う者もいる。好奇心に負けてか、中庭に落とされた吸殻を見る度に、私は同級生が見咎める程の渋い表情をつくって見せたものだ。

 ひとりのクラスメイトがいた。もう名前も思い出せないが、所謂不良と呼ばれる性質の、髪を赤く染めた少年だった。私は彼に対して何の感情も抱いてはいなかったが、中庭に捨てられた吸殻の主には、彼も含まれていただろう。

 二年生の夏であったと思う。

 部活動の関係で教師に呼ばれ、休業中であるというのにひとりで登校をした。

 話し合いが終わって、帰宅するついでにと教室に寄った。ノートか何かを置いていたのを思い出して、何気なく入ったのだ。

 がらんとした教室は、学期中とは違って酷く広かった。並んだ机のひとつに鞄があって、誰かが来ているのだろうと思われた。

 自分の机からノートを引き出し、バッグに詰め込んでいたその時、ぽとりと何かの落ちる音がした。

 振り向いた私の目に入ったのは、白地に赤の修飾が施されている小さな煙草の箱だった。

 まさか教室でそんなものを見るとは思っていなかったから、茶色い木組みの床にそれは異物として映った。

 そして私は、その荷物が置かれた机が彼のものであることを思い出したのだ。

 途端に怒りが込み上げ、私はその小さな脆い箱を踏み潰した。パッケージが破れ、中から刻み煙草がこぼれて出た。

「何やってんだ」

 声に顔を上げると、彼がいた。

 怒っていることは見て取れたが、今思えばクラスでも大人しい方だった私の突然の行動に面食らっていたのかもしれない。

「学校で吸うな」

 答えようとしたのではなく、私は中途半端な説教のようにそう云った。

「吸う吸わないは…」

 急に彼が間合いを詰めて、一メートルと満たない距離にいた。

 何が起きたのか咄嗟には分からず、殴られることを覚悟していた私は身を堅くした。

 用務員が、こちらを見向きもせずに廊下を通り過ぎて行った。

 溜め息を吐いて彼が離れたその時、私はようやく口を手で塞がれていたことを知った。

「…ったく、分かったよ」

 赤茶けた髪を掻きながら、彼は煙草の残骸を拾い、鞄を持った。

「分かったから、お前も誰にも云うな」

 低く云って、彼は出て行った。

 私は安堵の余り動けずに立ち尽くした。

 夏の風が開け放しの窓から入って来て、運動部の声を運んだ。

 鼻孔の奥に煙草の匂いがした。彼の手に付いた、あの煙草の匂いだろう。

 もう一度呼吸をしたが、既にその香りはなかった。

 彼があれからどうしたかは分からないが、私がその出来事を人に話すことは遂になかった。

 だがしかし、彼はあれ以来煙草を吸わなかったのではないかと思う。少なくとも学校では。何の根拠もない話だが。

 彼の手の感触も、温度も、何も覚えてはいない。

 外国煙草の匂いがした。

 私の思い出は、それだけである。

了(2001.2.13)

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