いつもの通りの彼の手捌きは見事と云う他ない。良く使い込まれたフライパンは深い黒光りを見せ、その中で跳ねる食材をいかにも旨そうに見せる。
「いつから自炊してるの?」
指の先で煙草がじりじりと灰になっていく様を眺めながら、私は口を開いた。
「料理してる時に煙草吹かすようなヤツには教えらんねえな」
それでも微笑って彼は応える。手早く皿に盛られたものは何の変哲もない焼きそばだったが、こんな日常的な食べ物を旨く作ることがいかに難しいかを、私は独り住まいをするようになって初めて知ったのだ。女の子だからと口煩く云われた母の手伝いを、しておくのだったと悔やんだところですぐに腕が上がる筈もなかった。
「重畳々々」
半分ほど残った煙草を惜し気もなく潰して箸を割る。水を飲みながら無心で食べた私を、彼は笑って見ていた。
「高校から寮だったから。いつの間にかだよ」
こんなに旨い料理を作るのに、彼自身は食が細い。背ばかりが伸びたような幅のない彼の躯は、しかし思ったよりも熱い肌を持っている。
『触れたところから腐るんだ』
最初に聞いた彼の声。知らない顔も集まる飲み会で、良い加減に顔を赤らめて、向かいの席の青年はそう云った。
ぞくりとした。
どんな話の流れだったのかは知らない。悪印象と、それから何か惹かれるものが、その言葉から発されていた。
『少しの体温なのに。包丁を当てたところは腐るわけでもないのにさ』
その体温に、私はそれからひと月もしないうちに肌で触れた。
(生きる温みだ)
夜具の中で掻き抱かれる度に、私はその熱さに縋った。果たしてそれは生きる為の行為だったのか。
恋人という関係を清算し、別れた末の友人なる不安定な付き合いを始めてもまだ、その答えは見えなかった。恐らくそれは永久に手に入り得ないものなのだろう。
「お前もつくづく家事したがらない女だよな」
皿を洗い、布巾で手を拭きながら彼が云った。
「そういうのを差別って云うんだよ?」
気の知れた者同士の笑いが漏れるこんな会話を、あの頃私たちは殆ど交わさなかったように思う。私は彼に頼り、彼は一人疲労を溜める一方だった。極端に甘える私とそれを拒めない性格をした彼との関係は、始めからどこか破綻していたのだと、大学を卒業する頃になってようやく知るに至った。
大学から遠く離れた生家で、私は母に頼られて育った。依存と混同された愛情は長い年月をかけて他の姉妹との間に深い溝を作り、他人との友情を阻んだ。留守がちだった父が退職して家にいるようになると、私にとっての居場所はもう無くなっていた。
恋愛にしても、私はただ自分のここにいる理由を求めていただけのように思う。
ソフトケースのパックから一本抜き出し、安物のライターで火を点ける。溜め息ついでに煙を吐き出した。彼はあの頃と同じように何も云わず、ただそれを見ているだけだった。男女の仲であった当時は随分と苦痛に思えたその視線が、今はただ心配そうな、暖かな光を孕んだものとして見えるのが不思議だった。
煙草の匂いに混じって、微かに腐臭がした。空気の流れが向かなければ分からないような、ほんの僅かな臭いだ。
私の視線に気付き、
「自炊してるとどうしてもな」
と彼が云った。
北国の冬の屋内は、ともすると夏よりも物の傷みが早い。
「……覚えてるよ」
唐突に投げられた声の意味を汲めずに眉を顰めた私に、
「料理始めたばっかりの頃のこと」
熱いコーヒーを口に運びながら、彼は言葉を重ねた。
「材料使い切るにも慣れてないもんだからさ。余らせては冷蔵庫の肥やしにしてた」
まだ少年であった彼の惑う姿は、容易には想像できなかったが。
「耐えらんなかったよ実際。それまでは親が調理して処理して捨ててたわけだからな。…生き物の腐る臭いがこんなに身近にあるとは思ってもみなかった」
「私なんか今でも駄目だもの」
植物の死骸の煙を吐き出し、苦く笑って見せる。
「…うん。でもただ臭いがって云うより、肉の黒ずんだのとか…野菜の溶解したのとか、形も。それ見る度に、こいつら生きてたんだって思えて」
人工の家屋の中、作為的な冷温の箱の中で、それでも生命の進むことは止められない。それは呼吸を失いながらも土へと返ろうとするその過程の、絶対的な生命の進行として彼の目には映ったのだ。
「生塵を始末する度に、吐き気に襲われる度に思ったよ。俺は他の命を奪わないと生きて行けないんだ。そんなことを考えること自体、人の驕りだとも思ったけどな」
コーヒーを一口飲んで、軽く溜め息を吐く。
「この色は罪の色だ。この臭いは、罪の臭いだ―――…」
懺悔のような彼の言葉を聞きながら、私は生家の台所を思い出していた。
鮮やかに魚を捌いて見せる母の手付き。安物の白いまな板にじわりと染み出た赤黒い血。まだ水を求めて乾かない鰭。無造作に除けられた白と赤の臓物。そして―――そして何より、あの濁った目。捨てられ、他の死骸にまみれて尚、こちらをじっと見て離さない目。
恐らくあれは生きる温みを失ったものに対する最初の畏怖であったのだ。そして同時に、自分が生きていくことに対する恐怖でもあったろう。
「お前さ、」
一息吐いて、
「そろそろ怖がんのよせよ」
ぼんやりと思考を飛ばした私の心を読んだかのように云って、彼は困ったように笑った。
「な。」
確かめるように続けられた問い掛けに、泣くのを堪えることができなかった。
コーヒーの入ったカップが、小さな音を立てた。顔を押さえた腕の隙間から、春近い薄日が僅かに差し込むのが分かった。どこまでも柔らかに、光が腕を掴む。
これは生きる温みだろうか。
私の、命の温度だろうか。
黙ってタオルを差し出した彼が小さな声でやり直そうと云ったのを、私は酷く遠い幸せのように聞いた。
了(2001.4.25)