凛灯舎

Contents

Novel

鬼灯 きちょう

 唇が開いた時、私はもう自分の中に衝動のあることを知っていた。

 少女はその饒舌で土地に伝わる祭の夜のことを話しかけたが、最後まで云わせずに塞いでしまった。寝床に倒された瞳が少少恨みがましそうにこちらを見たのはそのせいだったのかもしれない。

 唇は陰りも無く紅く、肌はそれに比例して白かった。

 額にくちづけ、瞼に落とし、産毛をなぞりながら耳朶の裏に舌を這わせる。洗髪料の匂いが強くした。先の入浴の際に付けられたものだろう。襟元を開きながら首筋から胸部までを辿り、肌の感触を確かめる。抱き抱えた細い腰が熱を持った。発汗というのはどういうメカニズムで起こるのだったろうと、全く色気のないことを考える。色気のなさを自覚したわりに、自分の行為が少女の器官を動かし、成熟の直前の躯を発熱させていると考えると、知らずに頬が火照った。

 乳房から腹部を探った時には、もう掌ではっきり解る程汗が浮いていた。その熱さが単に私の躯から移ったものだったのか、それとも破瓜に対する恐れの為だったのかは知らない。行為に対する期待でないことは明白で、それでなくとも盆の入りの夜は酷く暑かった。

「病院」

 忙しげな息の下で、夕季が単語だけを云った。

「…何」

「…どうしているかと思って」

 なるようにしかならない、と応えたように思う。祖母の病状についてそれは事実だったし、少女の言葉は私に一層背徳の思いを強めさせたに過ぎなかった。

 祖母はもう半年以上入院生活を送っており、いつ死んでも面妖しくはない病状だった。側溝に転落して足を折ったのをきっかけに次々と病気を併発させ、終いには糖尿を患い痴呆にかかった。思えばそれまでが元気すぎたのであって、長い間の苦労が一度に出てしまったのだろうというところで家族の考えが合致した。

 父の弟、つまり私の叔父の一家が一人娘の夕季を連れて五年振りに帰省したのは昨日のことである。叔父はこんな状態になるまで来られなかった詫びを長々と述べ、両親は、特に母は渋々納得した。祖母は私が高校生だった頃から時時辻褄の合わないことを云っては母を詰ったし、それについて叔父夫婦に対しての愚痴を零すこともあったが、今更横から口を挟まれてもというのも本音のようだった。

 迎え火を焚き付けた時に電話が鳴り、両親は慌ただしく病院へと出て行った。丁度叔父夫婦が隣町の祭に出掛けて連絡がつかず、私と夕季は留守番に残された。隣町は父の元々の実家が在った所なので、恐らく叔父夫婦の帰りは遅くなるだろう。それまで祖母の状態が持てばいいがと、出掛けに父が云った。

「…ねえ」

 夕季の目は泳いでいたが、然し心を追い遣ってしまったわけではなさそうだった。何か話していた方が落ち着くのかも知れない。

「やめるか」

 目を合わせずに訊いた。どうしてとだけ返され、それならば喋るなと云った。理由を問われても答えなかった。忘れられなくなるからだと、そうは云えなかった。

 最後に夕季に会ったのは、私が中学ニ年の時だ。夕季はまだ小学生で、猛暑の中虫捕りに連れて行ったことを覚えている。お互い藪蚊に刺され、薬を塗り合うだけでも無性に可笑しくて、意味もなく笑った。

 彼女は並外れて美しい容姿を持っているわけでもなかったし、早熟な子供だったわけでもない。だから私が夕季に対して愛情を抱いていたかと云われればそれは飽く迄も四つ年下の従妹に対してというだけのことだった。

 腰に回した手をそのまま下ろす。下肢を擦りながら胸に歯を立てると、少女は小さく息を漏らした。快楽は無い筈だと断りはしたが、だからと云って躯を開くことを等閑にはしたくなかった。私は恐らくそれまでに抱いた何人かの女性にそうしたよりも丁寧に触れた。行為に慣れていない躯は呆気なく温度を上げたし、夕季もそれが厭だとは云わなかった。

 静けさに胸が疼く。これを情事と呼べるのだろうか。

 恋人たちの主張するところの愛はない。私の唇は、指は、惨めになる程的確に動いた。少女の息を上げる処へ導くのは経験以外の何ものでもなく、後ろめたさを感じないのは事務的な所作だということを解っているからだ。

 それでも乱れた浴衣を四肢に絡ませる十五の少女は凄絶に美しかった。私の愚かな情欲を十二分に煽る程に。次など無いと知りながら、唇を求める程に。

 この行為は衝動なのだ。言い訳の無い、欲望だけの、生殖の為でさえない純粋なのだ。悪感情は無かった。どういう経緯で夕季の肩に手を掛けたかなどということは薄らとしか覚えていなかったが、寧ろその方がいいとさえ思った。

 大腿を緩慢に撫でる。私の手が内側に近付く度に夕季は躯を強張らせたが、何度か続けるうちに布団に体重を預けた。性急に感じさせないように、静かに浴衣の裾を割る。少し戸惑い気味に夕季が声を上げたが、また口を塞いだ。眉間に険があったが、下肢に神経が集中したのかすぐに微かな喘ぎに変わった。

 瞬間に聞いたのは呻くような声だったし、苦痛の為に少女の目が潤んでいたことにも気付いていたが、慣らしてもそれは仕方の無いことなのだろう。ただその表情を私に預けられたことに独占欲を感じた。そしてこれも愛ではないと、すぐに思う自分に厭気が差した。

 細い膝が、胸肌が、白熱灯の下で尚白く浮いて見える。露わになった脛に薄らと焼き付けられた靴下の痕が、観念を助長させるようだった。

 私が一度ゆっくりと動いた時、苦悶の声の間から夕季が私を呼んだ。私が応えずに頬にくちづけると、

「私、今朝…盆市に行ったでしょう」

 呼吸を整えながら、切れ切れに話した。

「鬼灯が売っていて…ほら、おばあちゃんが」

 目は天井を見ている。

「鬼灯を開いて遊ぶのを教えてくれたの…思い出して」

「…鬼灯で?」

 祖母は私にそんな遊びを教えてはくれなかった。矢張り男孫と女孫は違うのだろう。

「皮を開いて、…実の中を全部取り出すの。舌に乗せて潰すと音が鳴る…」

 それは思うより難しいのだと夕季は云った。巧く作って病院の見舞の時に祖母に見せようとしていたことも。もうそれは叶わないかも知れない。私にとって祖母との暮らしは日常だったから、いざ危篤と云っても現実感が無いのが本当だった。そういう意味では距離のある方が客観視できるのだろうか。

 夕季はそこで口を閉じた。然し私の気配を察したのか、途中でなく形式通りに終わらせてくれとだけ云った。私は只それに従った。

 床の始末を済ませた頃に、叔父夫婦から電話があった。携帯電話を持ち忘れたことに気付かずにいたらしく、私から祖母の容態を聞いて酷く動揺しているようだった。

 叔父夫婦が私たちを拾って病院まで行くことになり、夕季は一度着付けた浴衣を着替えて来ると云って奥の部屋に引っ込んだ。私は夕季のいなくなった自室で、これから起こり得るであろう祖母の危急に思いを馳せていた。九時になろうかというところだった。

 病院に向かう車の中で、夕季は目に涙を溜めながらも泣きはしなかった。祖母を心配していることは見て取れるのに、いつの間にこんなに成長したのだろうと内心驚いた。思えば私は彼女のことを何も知らずに抱いたのだ。高校ではうまくやっているか、進路はどうするのか、趣味は何か、―――恋人はいるのか。私の中に沸き出でたのは罪悪感ではなく、それに気付いたことに対する衝撃だけだった。

 祖母が亡くなったのは次の日の早朝である。

 盂蘭盆会の為に出された飾りや漆器の類は全てそのまま物置に仕舞われ、花は葬儀屋の手配したものと一緒にひと回り大きな花瓶に生けられた。居間と隣の八畳間をぶち抜きにして、俄か祭壇が拵えられた。そう云えば祖父の時もこんなふうだったように思うが、何せ物心ついて間もなかったのではっきりとは覚えていない。母が葬儀屋に電話をした際に、確り見ておくようにと私に云ったのはそのこともあるのだろう。

 容態としてはあまりに突然のことだったし、盆の最中で火葬場も寺もすぐには手配がつかず、叔母は一度東京の自宅に戻って喪服を持って来た。祖母が荼毘に付されたのは結局十六日の昼間で、葬儀と初七日を終えて叔父の一家が帰宅したのは二十七日のことだった。

 駅までの見送りから帰り、靴を脱ごうとして下駄箱の上に目が止まった。良く熟れた、真っ赤な鬼灯が四つ、飾り付けたかのようにそっと置いてあった。夕季が祖母にと置いて行ったのだろう。しかし私は方法を知らなかったから、実を柔らかくして水に浸けながら外すことを母に訊いた。

 洗面器に水を張り、まるで女児の遊びだと思いながらも腰を下ろした。軽いように見えてどこか不安定なバランスを持っている鬼灯の実を、そう云えばあまり目の前にして見たことが無かったように思う。盆の毎に仏壇に飾られていた筈のそれに、随分と無関心だったものだ。

 盆の間中放って置かれた鬼灯は、既に皮の先が開き始めている。葉脈の通っているところを見るとこれは実際は葉なのだろうか。外側に向けて引っ張ると、ちりちり、と乾いた音を立てて筋に沿って割れた。

 一瞬、背筋がぞくりと震えた。何がそうさせたのか判らずに、私は鬼灯の実を剥き出しにすると指で潰し始めた。薄皮の下で種子が動く。何かに似ている、と思う。その不可解なものを確かめようと、外皮をもう一度裂いた。もう一枚、もうひとつと私は何かに憑かれたように鬼灯を開き、実を潰し、気付いた時には全て駄目にしてしまっていた。力任せに潰された実が、どろりとした腸を晒している。青臭い匂いが鼻をついた。

 夕季は初めから何を望んだのでもなかったのだ。祖母の墓前に供えることに期待したわけでもなく、況してや私が綺麗に鬼灯を開くことが出来るなどとは思っていなかったのだ。彼女は鬼灯を置いて行ったのではなく、捨てて行ったのだ。

 私は洗面所の椅子に腰掛けたまま動けずに、破れた鬼灯にそれでも少女の面影を見ようとしたが、それは叶わなかった。醜く裂かれた外皮が、種子の飛び散った腸が、私の手を朱く染めて拒否した。

 洗わなければと、ぼんやりと思った。

了(2001.9.25)

Signpost

Copyright ©RINTOSHA. All rights reserved.