凛灯舎

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けむり

 眼球に油を巻いているようだと言うと、それが常態だと彼は嘯いた。ヘビースモーカーで、三十分も一緒にいると愛飲の中国煙草の匂いがこちらの皮膚にまで染み込んでしまう。

「お前、煙草は」

 訊かれたのは初対面から三四日経った頃だった。新入社員歓迎会の席上、如才なく立ち回る彼をぼんやりと眺めていた私に、不意に尋ねて来た。私は何と応えたのか、とにかく吸わない旨を告げると、見当外れだったと言わんばかりの顔をしてみせ、他の人間に声をかけていた。調子の良さそうな奴だと思いながら温い麦酒を煽っていると、誰からもらったものか百円ライター片手に、酷く匂いと煙のきつい煙草を咥えてどっかりと隣に腰を落ち着けたものである。

 面食らいながらも他に話す相手もなく、煙の合間に語られる言葉に耳を傾け、小一時間で彼についてのいくつかを知った。故郷は電車で十二時間、煙草は十七の時に始めた、靴を買い替えたい、軟骨の食感が厭だ。取り留めのない話が得意な輩というのはいるもので、自然と受け答えしてしまうような空気を作られ、また私はそれに諾々と従うような性質の人間だった。話の間中煙は続き、彼の周りだけ空気が紫煙と同質のようだった。独特の、どこか懐かしいような煙草の匂い。

 遭難しそうな視界だと誰かが茶化して会話は途切れ、帰り際に名前を聞かれても、彼がなぜ私を気に掛けるのか解らなかった。入社してからの数日で彼は数人と親しげに話をするようになっていたが、私は二年を費やしても結局彼らと打ち解けて話すような状態にはならなかった。それは学生時代の同級生とも同じことだったし、私自身その位置が心地良かった。

 深入りせず、深入りさせず、傍観され、傍観する。視界は透明なのに、光景は幻覚のように掴み所がない。会話の出来る相手は確かにいたのだけれど、それはもう二十年も前のことで、しかも今では少々憚る事情を挟む関係にある。その後相手がどうしているかも判らない。

 何か原因があるんでしょう。卒論提出日の当夜に別れた相手からはそんな風に言われた。解らないと応えたのは思い当たらなかったのではなく、彼女との関係を諦めていたのだ。本当は幼稚な反抗を引き摺っているだけだ。過去に靄を掛けて、現状がいつまでも続くようにと駄々をこねているだけだ。

 そんなことを彼に話したのは新人歓迎会から一年も経った頃だった。駅前の潰れそうなホルモン屋で、碌に酒も回っていないのに歌を唄うように調子良く言葉が流れた。まるで自演に酔った芝居だ。頭の後ろのほうで自嘲するのに、彼の煙草の匂いが重なる。

「そうなんだ」

 嘘のようにあっさりと、彼は相槌を打った。拍子抜けすると同時に、無意味に気負った自分がおかしく、気恥ずかしく、照れ隠しに煙草を一本所望する。これには彼も少し驚いた様子だったが、何故だか遠慮するようによこした。

 白い紙巻きに慣れた動作で火を点ける。何だやっぱり飲るんじゃないかと彼が言う。そう言われても昔父が吸っていたのを真似した時期があっただけで、常用はしていないと言い訳のように説明する。

「親父さん煙草止めたのか」

 訊かれ、そうだと返す。煙草を手放さない人だったが、私が小学校へ上がる頃、故郷から居を移してからは全く吸わなくなった。その前は濃い匂いのする外国の煙草がいつも机の上にあって、悪戯しようとしては叱られた。藍地に金インクの小さな箱―――。

「この銘柄ってその辺に売ってる?」

 私の唐突な問いに彼が否と答える。探すのに苦労した、そんな風に続けて。

 瞬間、記憶の奥底で推測が走る。まるで信じられずに彼のほうを見たが、煙がかかって表情が良く判らない。判ろうとしていなかっただけなのか。父の不貞、世間体、何でも話せた隣家の幼馴染みだとか、そう、その幼馴染みの出生が引越しの原因であったとか、そんな幼い記憶は全て父の煙草の煙と一緒に封じ込めていたつもりだった。同じ煙草の匂いが、それを解けと急かす。

 煙の向こうに彼がいるのかすら判らない。ただ指先の煙草を見ていると、何か話せよと焦ったような異母弟の声がして、私は何だか笑ってしまった。

了(2003.11)

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