凛灯舎

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骨(上)

 毎日骨を拾っている。

 獣のそれでは無い、歴とした人間の骨である。薄汚れたカルシウムの切片は、時に雨ざらしに土の上に転がり、時に石の下から出る。もう無いだろうと思いながら道具の始末をし始めると決まって視界の端に白いものが入るので、これはもう果てしなく拾い続けなければならないのだろうと思うと、全く暗澹たる心持ちになる。

 昼に一度、夕に一度、籠を背負って骨を拾いに出る。作業着にハンチング帽、ズック靴といった出で立ちである。軍手はしているが薄い上に穴が開いているので、火鋏の金属質が直に手に触れる。その硬い感触が、骨に直に触れているようで何とも気味が悪い。

 骨の大きさは大小様々である。細いのもあれば太いのもあり、長いのもあれば短いのもある。過去に掘削された為に、人間の骨格そのままを留めているものが無いことが僅かな救いである。明らかに頭部の一片と判るものにはさすがに怯むが、それ以外に関しては、これはどの部分の骨だろうと想像するのが一種日課になっており、麻痺して行く感覚を思っては身震いする。

 骨は、かちり、と鳴って大人しく掴まれるものもあれば、するりと逃げるものもあり、壊れるものもある。壊れたものを多く入れるとあの蛭みたいに陰険な絡み方をする爺ィにねちねちと厭味を云われる。あんまり幾つも壊れた時は欠片を丘の上から放ってやるが、丘の下に骨の山が出来てしまっては元も子も無いので、偶にしかしないことにしている。

 新しい骨は比較的重いが、古い骨が殆どなので、嵩が増えても籠は中々重くならない。慣れない頃は何度も籠を一杯にしたのに気付かずに屈み、拾った骨が首に傾れて来て大声を上げた。声を上げると子供たちが窓からちらちらとこちらを眺めるので更に気が滅入った。大体自分の為に拾っているのではない。真っ青に晴れた空の下で籠を背にうろうろと歩き回る人間は確かに不審だろうが、咎められる謂れなど何も無いのだ。

「まるで墓守のようだね」

 そう云われたことがある。

「骨に囲まれ死を拾うとは、まるで墓守のようだね」

 縄暖簾の下で会ったその男は、そう云い放った。墓守というと卒塔婆か十字架に囲まれスコップを手にした人間を想像したが、成る程墓にも昼はあるのであって、それを考えれば自分は昼の墓守と云えないことも無かった。然し行為はどちらかと云えば墓荒しなのであって、墓守のように永遠続くとも、そうでないとも保証されていないのだと抗議した。一応の職業を思い出した為である。

「それを云うのなら俺等は自分の墓を掘る為に生きているのだろう。どちらにしろ墓守じゃあないか」

 おかしな理屈を云う男だった。還俗して葬儀屋になったのだと名乗っていたが、笑いながらのことで、どこまでが冗談でどこからが真実だったのかも定かではない。

「永遠続くとも、明日終わるとも保証されていないのだ。アンタは人生そのものを仕事にしているんだよ」

 酔いも手伝って訳が解らなくなった。始めから解ろうとなどしていなかったのだが、余りにも隣の男が饒舌なので解ろうという気になってみただけなのだ。それでも現状はあんまりだ、あの爺ィは俺が死ぬまで骨を拾わせるつもりなのだと惰弱を云うと、男は小馬鹿にしたような目付きでこちらを見た。

「それなら目安を付けりゃアいい」

 アンタの手首に巻いているその汚い紐、そうそれだよ、良い年の男が洒落で手首に紐もあるまい、何か願を懸けているのだろう。それなら丁度良いじゃアないか、それが切れるまでの辛抱だと思えばいい―――。

 凝っと左手を見詰められ、心の内を見透かされているような気がして慌てて手を引っ込めた。女々しいな、と鼻で笑うと、男は立ち上がって店を出て行ってしまった。勝手な奴だと思うと同時に、墓守だの汚い紐だのという言葉が酒と一緒に頭を回る。自分の墓を掘る為に生きているというのなら、骨を拾うのは他人の人生の後始末といったところか。冗談じゃない、どうしてそんなことをと腹立たしくなって、その夜は強かに酔った。

 先輩というだけで上司と呼ぶならば、あの爺ィが上司ということになる。今日も上司の厭味を背に運動場へ出て行く。夏の名残か、晴れ渡る空の下へ籠と火鋏を供にふらふらと出て行く態は、子供に限らず誰が見ても不審である。

 偶に教頭が中庭の端からこちらを眺めている。野次馬根性が旺盛なのか、それともただすることが無いのか、そういう時は骨を抓みながらにっこり笑って「良いお天気で」と声をかけてやるのだが、教師は鶴のように首だけ前に出して、見てはいけないものを見たかのように引っ込んでしまう。あの仕草で挨拶をしたつもりなのだろう。拘わり合いになるのが厭なら来なければいいのに、何の考えがあるのか定期的にやって来る。

 推察するにアレは骨を見たいのだ。人間の骨という、医者だの火葬場の職員だの坊主だの、兎に角死人や怪我人を相手にする商売でもない限り日常見ないものを見てみたいのだ。それならそうと近くに寄って見ればいいものを、道徳観念とやらに邪魔されて見られないものと思い込んでいるのだろう。爺ィが自分で拾わないのも同じような理由からのようである。骨の壊れるのを咎めるのは仏様に失礼だからと云う。特にぞんざいに扱わずとも壊れるものにまで罰をくれるなどとんだ仏である。大体こちらはその道徳に法って、転がしては置けぬと拾い集めているというのにおかしな話だ。要はアレも怖いのだ。

 あの男の云った通り、人間が自分の墓を掘る為に生きているのだとすれば、行為としては墓を暴きながら墓を掘っていることになる。死者の上に生を上塗りしているようなものである。死者と云っても骨だから許されているのだろうか。若し死にたての人間を火鋏で抓んで籠に入れて処理などしたら裁判沙汰だろう。そもそも死にたての人間は運動場に転がってなどいないが、然し人間というものはどこまでが人間でどこからが骨なのだろう。死体、と云った時はまだ躯を指すから、人間であったものだということが判る。ミイラとなると多少の好奇心を含み、学術的見地に基く証明を求められることになる。同じ骨でも火葬場では丁重に扱われる。骨はいつから骨なのか、いつからならば火鋏で籠に入れても咎められないのか、ぼんやりと考えては骨を抓んで籠に入れる。

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