凛灯舎

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五里の路(下)

 力強い手で揺さぶられ、視界に光が入った。

「お侍様、もう看板でございますよ」

 小料理屋の娘の顔が横に見えるのに、数右衛門は自分が寝入っていたことを知った。

 慌てて起き上がるともうすっかり店の中は片付けられ、後は数右衛門を追い出すばかりの様子である。店主だろう親爺は、流しでがちゃがちゃとやっていた。

「これはすまなかったな」

「いえ、楽しいお酒で宜しゅうございました」

 数右衛門が素直に謝ったのが可笑しかったのか、娘はそう言って笑った。

 はっとして向かいの席を見ると、既に不破の姿はなかった。寂しい心持ちはあったが、行きずりに昼酒を交わした相手との別れなどこれで良いのかも知れぬ。

 脇へ置いた刀に手をかけ、取り上げようとした数右衛門の動きが、止まった。

「そうだ、お連れ様からお言伝を頼まれましたんですよ」

 思い出したように、娘が書簡を差し出した。存外の厚さに、坐って読んで行ってもいいかと尋ねると、仕切り台の向こうから親爺が代わりに了解をよこした。


 書簡を読み終えるのに、一刻も費やしたかのように数右衛門には思えた。

 広げたまま呆然としている数右衛門に、娘が恐る恐る声をかけて来た。手に茶を持っている。

「いや、何もない」

 そう返し、再び刀をまじまじと見ると、鯉口を切ってみた。

 竹光であった。拵えから覚えがない。

 数右衛門はもう一度書簡に目を落とした。

 果たして、不破武之進は仇討ちの途中であった。数右衛門と同じく父の仇敵を追い、十日ばかり前にその居所を知ったのだという。

 しかし事情が少しばかり複雑であった。不破の父は長く藩監察方を務め、謹厳実直な人物であったが、何の弾みか上部からの賂に手を染めた。不破の父を討ったのは、そのことを諫言した配下の者であった。

 不破は仇敵の居所と共にそのことを教えられ、とても信じられぬと書いていた。しかしそう考えたほうが、辻褄が合うのだとも。

 いずれ不正の露見する日も来るやも知れぬ。その日を遅らせるためにも、どうしてもこの手で討ち取ったという名分を手に入れたい。

 しかし慣れぬ旅の途中で刀を盗まれ、少ない路銀で手に入れた竹光では相手を斬れぬ。仇を討ったらきっと返すので、それまで刀を貸して欲しい。震えるような字で、下総へ向かうことや己の藩名までをも、不破は記していた。

 数右衛門は、不破のくすんだ浅黄の手甲を思い出した。そしてまた、不精髯を生やした顔が寂しげに笑んだ様も思い出した。

 その顔に、お主には斬れぬ、と言った。

 その刀では斬れぬのだ。斬れぬ、斬れぬと繰り返した。

 数右衛門の差し料もまた、竹光であった。

 岩井の死んだ日、長屋の住人たちの話を聞き、その刀身がとうに手放されていたことを知った。拵えはそのままだったが、中身は殊更不出来な竹光であった。煤けた色があの日見た岩井の顔を思わせて、たまらなかった。

 岩井の母が病と心労の末に逝ったことは妻からの文にあった。兄弟もない岩井を弔う者はもうない。

 父の形見は仇の供養に消えた。

 馬鹿なことをと言われるだろうが、それでも良いと数右衛門は思った。酒の席で一度だけ、自分を義兄と呼んだ男に、それがせめてもの手向けと思えただけのことである。


 書簡を懐にしまい込み、温い茶を啜るとようやく人心地がついた。店の親爺と娘が、気遣うようにこちらを見ている。

 世話になったなと声をかけ、懐に手をやると親爺が慌てた様子で、お代は頂いておりますと言った。

「なに----」

「お連れの方が、あなた様の分もと仰って置いて行かれましたんで」

 不破は一刻前に、金と書簡を置いて出て行ったらしい。刀の借り賃のつもりであったのかと考え、数右衛門は胸の締め付けられるような思いがした。

 どの辺りにいるのだろう。この寒さの中をまだ歩いているやもしれぬ。宿を取り、そして刀を改めていてくれると良い。

 数右衛門は勘定を余分に置くと、もしあの侍がまた来たなら持たせてくれと言った。店の親爺が頷くのを確かめ、数右衛門は振り向いて不破の坐っていた席を眺めた。

 娘が湯呑みを片付けている。やはり斬れぬと独りごちると、娘はこちらを不思議そうに見た。

「あほうじゃの、と言ったのだ」

 鍔がかちりと音を立てた。

了(2005.01.18)

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