凛灯舎

Contents

Novel

五里の路 ごりのみち(上)

 人並みに生きて来たと、友永数右衛門はそう思う。

 特別に悪いこともせず、また誉められることもなく、三十四年を生きて来た。まだ子はないとはいえ仲睦まじい妻もいる。弟妹も適当なところへ納まった。このまま細々と、いつかは子も授かり、さしてうだつの上がらぬまま御奉公を終え、隠居をしたら好きなことをして暮らそう----という心積もりのにじみ出ているような男であった。

 風貌も少し間が抜けている。丸顔に下がりぎみの眉が置いてあり、そこへ小さな目がくっついて、低い鼻が上へ弧を描いている。口の端が下がったところなど誰も見たことがないだろう。

 その口で、

「青天の霹靂とはあのことであった」

と言いながら、おれには合わぬ言葉だ、と数右衛門は思った。

 合わぬと言えばこの状況全てが合わぬ。江戸の、見も知らぬ小料理屋の一隅で、赤の他人を相手に昼間から酒を飲むなどまったく性に合わぬ所業である。

 赤の他人----向かいへ坐った若い侍は、不破武之進と名乗った。ひとりで飲んでいた者同志、酌み交わし始めたのは四半刻ばかり前のことだ。

 これも普段の数右衛門からはあまり想像のつかぬことである。陰で昼行灯などと呼ばれるほど穏やかではあるが、決して人好きのする性質ではない。

 つまりこれは善く善くのことだ、と数右衛門は己に言い含めた。そう思わねば憂さも晴らせぬ。

「さようでございましょうな」

 痛ましそうな表情をして、不破が数右衛門の猪口へ酒を注ぎ足す。酔ってやや饒舌になった数右衛門とは対照的に不破は涼しい顔を崩さなかったが、あまり飲んでいないためだろう。

「父の仇と決め込み四年も追い回した末に、ようやく辿り着いたかと思えば病持ちだ。今日か明日かと思うた挙句、その病に先を越されたよ」

 一息に呷った。

「では----」

「一昨日のことだ」

 自棄のような自分の言葉に、不破がはっとした、ように、数右衛門には思えた。

 東国の生まれで、ひと月前にこの江戸へ入ったらしいという以外、不破については何も知らない。ただ真面目そうな物腰には好い印象を持ったし、すっきりとした面長の顔立ちに似合わぬ不精髯を認めて、何となしにそこへ坐すことを許した。気に入ったというよりも気にかかったと言ったほうが合っている。

「それは、」

 言いさして、やや苦しい声で、

「御無念でありましたでしょう」

と続けると、不破はまた酒を注いだ。手を追った数右衛門の目には、銚子を持つ浅黄の手甲が場違いなように思えた。

 不破は旅装である。良く見ると月代もしばらく剃っていないようであったし、着物も薄汚れている。声をかけられた時には無心が目当てかとも思ったが、ここへ入る前に髪結いを頼みいくらかこざっぱりしたとはいえ、火熨斗を当てていない袴や、雪がちらついているというのに袷も羽織らぬ様を見れば、叶わぬことなど容易に知れようと打ち消した。

 いずれ何かしらの事情があるのだろうと数右衛門は思う。郷里より遠く離れた江戸で、仇を討ち損ねたことを酒で紛らわそうとしている自分のように。

 黙って酌をすると、不破も黙って受けた。

 何かにやつれた若い侍は、二十五を越えているだろうか。同じ年頃でもあいつの酒は賑やかだったと思い、知らず比べていた相手を思って、数右衛門の胸が鉛のように重く冷えた。

 生来、数右衛門の父の仇となる以前から、岩井主馬は病弱であった。ただはっきりと発症してなかっただけのことで、岩井の酒がやたらに陽気だったのは、若くして亡くなった父や、床に臥しがちな母や、いずれは己をも蝕むであろう病のことを一時忘れる方便であったのだ。

 線は細くとも明るい男だった。数右衛門の父を殺めるに至った経緯は今だに解らぬ。

 許せ、と、数右衛門は腹の中へ叫んだ。瞼の裏で、頬の削げた岩井の死に顔が、血で汚れた父のそれに重なる。

 伝手を頼りに江戸へ入り、心細い路銀で宿をとった。江戸詰めの者に助けられ、ようやく岩井の居所を街外れに突き止めたのは半月前のことである。

 その日歩いた道の感触を、数右衛門は幾度も思い返す。吹けば飛ぶような長屋に死相の浮かんだ岩井の顔を見付けた時、この四年の旅を支えていた何かがぽきりと折れた。

「ああ----」

 気の抜けた声が土埃にまみれて、消えた。

 一緒に刀も折れれば良いと数右衛門は思ったが、無銘ながら父の遺品となったそれは一向曇ることはなかった。今日行こう、明日行こうと思いながら日が過ぎ、この年初めての雪が落ちた日に岩井は逝った。

「後はお戻りになるだけですな」

 不破の声で我に帰った。手の中の酒が冷えている。

「御内儀もお子もさぞお喜びでしょう」

「子はまだおらぬ。仇討ちは果たせなんだが、相手は死んだに違いないし、帰るより他あるまいよ」

 つう、と喉を酒が滑り落ち、代わりに咽るような息が上がって来た。大分酔っている。

「某も国に妻を残しておりまする。もう二年になりますが----」

 不破の口許が、初めてほころんだ。

「やや子がおりましてな」

 心底からうれしげな声に、数右衛門は今この若者と飲み交わしていることを喜んだ。見れば不破の顔も良い加減に赤みを帯びている。

「お主も早く帰らねばならんのう」

「はい」

「おれの仇はなあ不破殿、妻の妹の許婚であったのだ」

 聞いて目を翳らせた不破に、良いのだと大仰に手を振る。

「もう終わったことだ。それを思えば帰るのは嬉しいことばかりではないが、しかし死に様も見届け、出来る限りのことをしたと思うておるよ」

 陰気な話だったなと笑ってみせると、不破も少し寂しそうに返した。

 今日は良いままに酔おうと数右衛門は思った。明日の朝には江戸を発つつもりである。

 店の中は薄暗くなり、いつの間にかぽつぽつと客も入って来た。ほろ酔いの不破に酒を勧め、また勧められる。何度目かの酒を置きざま、灯を入れましょうと言って店の娘が行灯に手をかけたようだった。

 数右衛門の記憶は、そこで途切れている。

Signpost

Copyright ©RINTOSHA. All rights reserved.