それから四月ほどして、叔父の家の取り壊しをするという話が出ました。父方の兄弟は大蔵の他に四人おり、内二人の叔父も皆復員していましたが、誰も住む者がいないというので更地にして売ろうということでした。幸い周囲の田圃の持ち主が買取に名乗りを上げたので、暑い夏の最中に親族が立ち合って解体することになったのです。私の家からも誰か行かねばなるまいという話でしたが、祖父は大蔵叔父の話をすると首を横に振るばかりで、結局長男である私が行くことになりました。
驚いたことに親族の者であの家に行ったことがあるのは私と妹のフミだけでした。小さな停車場へ行く地方線は廃線になっておりましたので、バスを乗り継ぎ私は土地を買い取るという農家へ向かいました。その家は叔父の家から五分程歩いた処に在り、私と叔父叔母たちはそこを待合にさせて貰ったのです。
私が到着する頃には皆玄関先で和やかに談笑しており、麦茶の一杯を御馳走になるとすぐ、大蔵叔父の家へと歩き出しました。牧歌的な風景は戦争を挟んだとは思えぬほど当時のままで、ただひとつ、こんな田舎で誰が持っているものか車の通った後があり、私は十年という時の流れを妙な心地で感じたものです。
「正志さんな工場どご継ぐなぎゃ」
「いえ、大学を受験してそれから決めたいと思っています」
他に話題も無かったのでしょう。道すがら叔母が訊いてきたのに、私はなんとなくそう答えました。答えながら、ああ、それもいいななどと思っている腑抜けた受験生でした。
叔父の家は、あの日と変わらぬシルエットで私を迎えました。しかし幼い私を脅えさせた神秘的なものは、年月のフィルタで見えなくなってしまっていました。恐らくあの出征の日、国民服を着た大蔵叔父を見た瞬間に、私の中で何かが厭な方へと成長してしまったのに違いないのです。
それでも否応無しに期待は高まりました。あの中には叔父の描いた美しい幻燈の絵が、懐かしい庭が、そしてあの人形があるのです。出征の前に叔父が父に渡した勝手口の鍵を扉に差し込み、無言で家の中へと入りました。誰も私が身を硬くしたことには気付かない風でした。
勝手口から台所、居間へと上がった私の目に入ったのは、雨戸の開け放された縁側でした。柱も庭もあの日のままで、強い眩暈と余りの懐かしさに、私は大きく息を吐きました。
「おい、こりゃアどういうわけだ」
叔父の声で我に返り、
「どうなさったのです」
尋ねると、
「どうしたもこうしたも正志君、……これが三年も人の住まなんだ家かね」
叔父は顔を青くして答えました。
成る程云われてみれば床には塵ひとつありませんし、庭の草木にも手入れが行き届いております。何より雨戸が開いていたことに叔父叔母たちは肝を冷やしたようです。私は黙っておったのですが、実を云うと勝手口の鍵も開いたままになっていました。
私はといえば、嬉しさで胸が詰まりそうでした。まだこの家は物の怪屋敷なのだ。矢張りあの人形は動くのだろう。気味悪がる叔父たちを残し、私はさっさと奥の大蔵叔父の自室へと向かいました。この障子一枚隔てた向こうにあの人形がいる、美しい絵と共に叔父の帰りを待っている―――……。
埃の溜まらぬ障子をがらりと開け、私はあの日のように部屋の様子に言葉を失いました。
朱い木枠の丸灯篭の左には文机が在り、絵の道具が整然と並べられてありました。その隣りには叔父の描いた絵が、二列に高く詰まれています。そして灯篭の右隣には、―――ぽっかりと空間が空いているだけなのでした。
幻燈の仕掛けに躓きそうになりながら中へ入り、八畳ほどの部屋をくまなく捜しましたが、あの人形は影も形もありませんでした。
遺品を捜す親族たちの中で、私は呆然として庭を眺めておりました。あの部屋にいないのならば、この家のどこにもいるまいという漠然とした確信があったのです。
気付くと、叔父のひとりが隣りに腰を下ろしていました。父の直ぐ下で、職業軍人であった人です。
「懐かしいだろうね」
余り訛りの残らない言葉で、叔父は私に話し掛けました。
「……ええ」
庭の木ゝはすっかり剪定され、見苦しくない程度に残された草が、青々と茂って風情を醸し出しておりました。
「十年も経つと、子供の頃の記憶というのは夢と同じですね」
「はは、そういうものかもしれないな」
私の年寄り染みた言葉に、それでも叔父は相槌を打ちました。
「直幹叔父様、ひとつ伺いたいのですが」
「何かね」
「大蔵叔父様と御爺様の間に何があったのですか」
縁側に坐り、云った途端、隣りで叔父が此方を見たのが解りました。
「そりゃあ浮世離れした人でしたけど、藝術家と云っても認められない昨今ではないでしょう。放蕩と云うほど贅沢が好きな人にも見えませんでしたし、あんなに綺麗な絵をお描きになる方でしたもの、性根の優しい人だということは子供心にも判りますよ。それに素晴らしい生き人形を作る技術もお持ちでいらっしゃった」
「生き人形?」
しどろもどろになった私の言葉に、叔父は耳慣れない語彙を聞いたのか眉を顰めました。
「ああ、矢張り御存知無かったのですか。人の大きさほどの女性の人形ですよ、あかい紅をさして牡丹の振袖を着た―――」
今度は私が驚く番でした。叔父の目が大きく見開かれ、口に咥えた紙巻きからは灰が落ちそうになっています。
「紺地に、白の牡丹かね」
そう云うのがやっととでもいうように、叔父はそれだけを掠れた声で問いました。
「そうですよ、叔父様も御覧になったことがおありなのですか」
「いや、無い。無いが、」
叔父の額には脂汗が浮いて見えました。
「どうなさったんですか。御気分でも」
「……大丈夫だ」
叔母を呼ぼうとした私の腕を引き止めて、叔父は幾分か苦しげな笑みをこちらに向けて寄越しました。庭の木から、クマゼミの鳴く声が何重にもなって聞こえました。
「そうだな、話してもいいだろう」
やや落ち着きを取り戻し、再び庭に目を向けた叔父の目は、晴れ晴れとしながらも哀しげでした。
「大蔵が藝大に行くことを志願した時、親父は取り分け反対もしなかった。あの通り一徹ではあるが話の通じない人ではないからね。大蔵は末子で皆に可愛がられていたし、既に兄さんは事業を興していた。私や弟妹たちも手を離れていたから十分な学費も出せたろう。ただ、」
大蔵叔父には生涯の約束を交わした人がいたのだというのです。土地の高等学校に通う傍ら、叔父は通学路に在った家の娘に恋慕を抱き、祖父母や父らに知らせぬまま結婚の約束をしたというのです。
私の家は資産家と云う程ではありませんでしたが、祖父の代には在所の地主としてそれなりの名のあった家柄でした。対して大蔵叔父の相手の娘の家は裕福とは云えず、叔父の藝大志願と同時に明るみに出たふたりの仲は、祖父の猛烈な反対に遭うこととなりました。