凛灯舎

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闇濘幻想 あんねいげんそう(一)

 盧溝橋事件の年でありましたか、私は詩人の中原中也が逝った年であったと記憶しております。

 後に文献などを見れば、かの戦艦大和の着工された年であると云いますから、世の中は軍需景気に沸きあがっていたとも思われます。それにも関わらず次郎長の芝居の文句ですとか、また碧梧桐の逝ったことでありますとか、多少浮世離れのした覚え方をしているのを思うと、私の興味というものは幼い頃より他人様とは違うところを見ていたものでありましょう。

 生まれは東北の所謂農村地帯です。徳川の頃までは外様の殿様の小さな城が在った所で、私たちは良く城跡で遊んだものです。城下町と呼べる程の大きな町ではありません。あの頃は城壁の一部が残っておりましたが、今はそれも危険とのことで取り壊されたと聞きます。

 私の父は清との戦争で財を成した鉄鋼商で、満州にも出入りをしておったようです。とにかく新しいものが好きな人で、やれレコードの吹込みだ、やれパーラーのコロッケだと云っては私とふたつ下の妹を東京へ呼び寄せました。あの年には街の中に『別れのブルース』が流れておりました。下らぬことばかり覚えておるものです。

 そんなわけですから、私と妹は東北に生まれ育ちながら殆ど土地の言葉を話さずに育ちました。聞いて意味が通じぬというわけではありませんで、私共を街の子と呼んでいじめる同級生らの言葉は解せたのです。今でこそこうして土地の年寄りのような顔をしておりますが、何ともその頃はやり切れぬ思いでありました。

 その年の夏のことです。

 私の家のお手伝いが、お勝手の外にありました井戸に落ちて死にました。年の頃は十七、八の娘で、私と妹はねえやと呼んで慕っておりましたので大変驚きました。医者の話では誤って転落した末、首の骨を折ったのだろうということでした。

 私の生まれた地域では、家の中で他人の人死にが出ることを大変不吉としておりまして、私と妹は父母とはまた別の親類の家へひと晩泊まらねばなりませんでした。忌を避ける風習だったのでしょう。父と母は隣町の叔父夫婦の家へ、祖父母は同じく伯母夫婦の家へ行くことが決まりましたが、私と妹の行く家は忌日の前の日になっても決まらぬままでありました。覚えているのは、難しい顔をした父が、

「仕方があるまいなア」

 と云って電報を打ったことだけです。私が九つ、妹が七つでした。

 何の仕方のないものか、私と妹はお手伝いの小母さんに連れられて汽車に乗りました。日も落ちようかという頃になって着いた先は、私たちの住んでいた町の駅よりももっと小さな停車場でした。非常に淋しい処で、陰気な駅員に切符を手渡した時の怖さは忘れられません。

 そこからまた更に小一時間も歩いた処に、叔父の家がありました。小さな家屋の玄関で出迎えてくれた叔父に、私はそれと知らずに挨拶をしました。小母さんがその人に、

旦那さんな、大蔵さんさなばなィもれんらぐつがねどって……

と云ったのを聞いて、

(ああ、彼の人なのだ)

と判ったような次第です。

 大蔵というのはその叔父の名で、父の末の弟なのでした。私たちが小さい頃はおろか、その歳になるまでついぞ顔も見たことがなかったのは、半ば家から縁を切られた人だったからなのです。家の法事だの、祝い事だのにもその人が顔を出したことはありませんでした。父は六人兄弟で、私たちの預け先ももっとあったろうというものですが、生憎他の兄弟たちは仕事などの関係で、近い処にはいなかったようです。

はア、そイんだば何ともしかだねがったんし

 ぼさぼさの髪を掻きゝゝこちらに笑いかけた態は、とても普段父が云っていた『不肖の弟』とは思えぬほどの落ち着きようでした。叔父が祖父に疎まれた理由は詳しくは知りませんでしたが、何でも東京の偉い大学に入った後の折り合いが悪かったようです。

 小母さんは、家のことの関係もあって、四日程私たちを預かってくれないかという父の言伝を伝えると、さっさと帰ってしまいました。

 私らは余程心細げな顔をしていたのでしょう、

いぐ来たなヤ。ばげ物やしぎだのも、まンづ上がれ

からからと笑って、叔父は私らを屋敷の中へ招き入れました。磨かれるでもない古い廊下は足を進める度にギシギシと厭な音を立てて、私は、化け物屋敷とは冗談ではなく、この前を歩む人も本当は化け物で、これから私と妹は喰われてしまうのではないかと思ったものです。丁度その頃私の通っていた尋常小学校では幽霊だのお化けだの、そんな話が持て囃されておりましたから、似たような話の件を思い出してまた怯えました。

 部屋は四つもあったでしょうか。居間と思しきところに通され、黴臭い座布団に座っても、私と妹は落ち着きなく目ばかりを動かしていました。

 叔父が流しに立ち、

「お兄ちゃん、怖い」

と妹が寄って来て、ようやく私は兄としてのつとめを果たさねばならぬと力んだものです。

なイもねっけ

 そう云って叔父は、ふたつの湯呑みに水を汲んで来ました。

 いつまでも手をつけるのはおろか、話もしない私たちを見遣って、

ンだ、正志ちゃんさもべって頃に会ったきりだぉなヤ。フミちゃんどなば初めでが

 仕方がないという風に苦笑しました。

おどさんどおがさんな、達者だが

 緊張をほぐそうというのでもなく、ごく自然に叔父は話しました。私は無言で頷くのがやっとでした。

じっちゃどばっちゃもマメだが

 私はまた頷きながら、後三日間もここに居なければならないのかと暗鬱な気持ちになりました。

晩飯よ、何としたけな

 問われ、母が持たせてくれた握り飯のあるのを思い出し、急に腹の虫が鳴りました。隣を見ると、妹も小さな手を腹のところに当てております。

何と何と、腹減ってらごったば食ェばいしゃ。オレもそろそろ晩げにさねねおの

 可々大笑し、叔父はまた水場に立ちました。腹の減ったのを知り、ようやく私はここまでの道程がひどく暑かったことや、咽喉の乾いていたことを思い出しました。開け放しの窓から夏虫や蛙の鳴く声が盛大に聴こえました。周りは田圃であったと思います。

 湯呑みに汲まれた水はとても冷たく、砂糖でも入れたものかほんのりと甘味がしました。目配せをして、妹もそれを飲み、ようやく私らは人心地がついたのです。

 叔父の食卓は質素なもので、小さな川魚に漬物、それに味噌汁と麦飯でした。それを旨そうに食べる態を見ながら私と妹もおにぎりを頂いたのですが、その時に私は叔父の擦り切れそうな着物の袖に、黒い染みのあることを認めたのです。大人の掌ほどの大きさのその染みは妙に黒々としておりまして、私は頭の隅で

(もしや人の血ではないのかしら)

などとまたあらぬことを考え始めました。

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